21世紀の系統分類学への提言日本産アリ類データベースの目的とその分類学的意味1994年要 約
1.日本におけるアリ類分類学の現状と問題点アリ類は人間の生活圏に密着して棲息するため,古来より人とのかかわりの深い昆虫の一つである。また,小学校の教材で取り上げられていることや,昨今の環境アセスメント調査ばやりも相俟って,アリ類は種の同定の需要の多い昆虫でもある。しかし,日本のアリ類分類には下記のような本質的な問題がある。 1)アリ類分類に対する社会的要請の拡大と研究者の不足。 上記のごとく,アリ類の分類に関する問い合わせは増加の傾向にあるにもかかわわらず,同定の技術や知識は一部の専門家に限られている。しかも専門的知識を有するもので,研究に専念することができる職についているものはさらに限られていおり,増 加する社会的ニーズに必ずしも対応できていない。したがって,アリ類の分類同定はアマチュアの手によるところも大きいが,新種の記載,分類学的変更,包括的な情報の統合など,学問的体系化において制約は免れない。 2)日本にはアリ類の模式標本がほとんどない。 ○日本産アリ類の既知種約170種の内,模式標本が日本にあるのは最近記載された約20種程で,残りおよそ90%は英国の自然史博物館,スイスのバーゼル博物館,米国のハーバード大学比較博物館など,国外の博物館に保管されている。従って,日本では直接模式標本と照合して種を同定することができない。標本の貸出し制度もあるが,誰でも何時でも利用できる訳ではない。 ○現在の日本産アリ類の学名は,世界各地の博物館を訪れたわが国のアリ研究者が同定したか,あるいは模式標本を取り寄せて同定したものをベースにしている。しかし,その記録が残されていないため,その同定の正否は確かめようがない。 3)日本にはわが国に現存するアリ類を全種集めた参照標本コレクションがない。 日本ではアリ類の標本が大学や博物館など個別の研究機関に分散しているか,プライベートな形で保存されており,一般にアクセスするのは容易ではない。日本産のアリ類すべてが閲覧できる参照用の包括的なコレクションは,現在どこにもない。 これらの問題点は単にアリ類だけでなく,他の生物分類にも共通に当てはまり,日本の分類学の実情と言っても過言ではない。 2.従来の分類学に内在する問題点日本の分類学に固有な問題以外に,生物分類学には一般に次のような問題がある。 1)分類情報の一般への利用の困難性 ○分類学では伝統的に複数の人が共同して作業することが少ない。このことは,一方では分類学者が個人の限られた領域に閉じこもりがちで学問上の論争が起こりにくいという現象を招き,他方では分類学は個人の主観に委ねられた部分が多く客観的とはいえないという他の分野からの誤解をひきおこし,ひいては学問としての活性化を阻害している。いずれにせよ,複数の研究者が共同することによって,より広範な分類情報を集積することができるであろうし,そのためには分類の現状をより広く公開する必要があろう。 2)分類学者に課せられた過重な負担 ○種の同定は,各専門分野の分類学者に依存するため,分類学者はサービスとしての種の同定に多くの時間をとられている。 ○最悪の場合には,種の同定依頼に対応しきれない状態が生じている。 3)模式標本の消失 ○模式標本は不測の事態により常に消失する危険にさらされている。 4)文字による分類情報の不完全性 ○ある生物の分類についての情報は,実物を参照するのがもっとも効率的である。しかしこれは伝達しようとするには不適切である。そのため,標本の作り方,その保存方法,記載の方法などの技術が発達してきた。 ○記載は分類情報のうち,もっとも古くから試みられた伝達方法である。そこでは,術語をできるかぎり統一・定義し,正確で普遍的な記述をめざす一方で,線画や彩色画を添えたり,写真を添えたりして,言葉による情報の不足を補う努力がなされてきた。 ○しかし,その時代の技術的な制約要因,コストの問題等で,これら分類情報を幅広く容易に利用するためにはまだ十分整備されているとはいえない(例えば,記載文献の入手の困難性など)。 ○近年のコンピュータ技術の発展と普及は,従来とは異なる形での情報媒体の利用を可能にした。 ○「カラー画像情報」は,分類情報に新たな発展の契機を与えるものである。その理由は,ひとつには分類形質の情報量が飛躍的に増加するためであり,ひとつにはアクセスが比較的容易で利用者の拡大が予想されるためである。 ○われわれアリ類研究グループが取り組んでいる「日本産アリ類カラー画像データベース」は,その様な分類情報の歴史的動向を先取りする試みの一つである。 3.模式標本のカラー画像データベース化構想以上の分類学にまつわる本質的な問題を解決するため,模式標本のカラー画像データベース化を提案する。 記録方式として,高解像度カラー写真に撮影した画像を PhotoCD 上にデジタル画像ファイルとして保存する。われわれはこの方式により,分類上有用な微細形態や微妙な色調などの情報を高いレベルで再現できる事を既に確認している。 デジタル化された画像は,劣化することがなく,文字情報と同様にネットワーク上での交換が可能なので,各種分類情報と組み合わせた画像データベースを構築することによって,地域・時間を超えて,全世界の人々の間で共有が可能である。 一般に模式標本は,特に古い時代のものは,保存状態が悪く形質の細部が不鮮明になり易い。そこで模式標本とそれに対応する現存種をカラー画像化し,両者を並列表示することにより,分類検索精度は飛躍的に高まる。 さらにカラー画像にランダムアクセス方式の分類検索機能を加えることにより,分類検索の繁雑さを専門家の手から解放して,素人も容易に利用する事ができる。 21世紀は開かれた分類学の時代である21世紀の博物館は,単に模式標本を保存管理するだけでなく,世界の主要博物館が共同してカラー画像データベース化を推進し,コンピュータネットワーク(文部省学術情報ネットワーク(SINET)やインターネット)上に公開することにより,人類が生物分類情報を共有することが望ましい。 4.モデルケースとしてのスミスコレクション日本蟻類研究会は,開かれた分類学を目指して,日本産アリ類の模式標本のカラー画像データベース化を推進している。その一環として,このほど英国の自然史博物館所蔵のスミスコレクション10種の日本産アリ類の模式種について,データベース化に成功した。 スミスコレクションとは,Frederick Smithが1874年に記載した日本産アリ類の模式標本のことをさす。 1874年Frederick Smithは,幕末にお茶の貿易に従事していた英国人George Lewisが居留地の神戸付近で採集した膜翅目に関する論文を発表した。論文中には11種のアリが新種として記載されているが,その模式標本のうち現在所在不明のCamponotus vitiosusを除く10種について,カラー写真撮影が行われた。 カラー画像はPhoto CDに記録し,WWW版アリ類データベースに組み込み,対応する現存種のカラー画像と並列して比較できるようにした。 今後さらに世界各地の博物館を訪ね,日本産アリ類全種の模式標本をカラー画像データベース化する予定である。 データベース化したスミスコレクションのアリは次の通りである。 データは学名,標準和名,標準コード番号,(=シノニム学名),模式標本の種類の順に並べてある。
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